第二高等中学校〜第二高等学校医学部時代
仙台医学専門学校は、1887(明治20)年第二高等中学校の医学部として始まりました。
第二高等中学校は1888(明治21)年に片平の元陸軍用地を敷地と定め、1889(明治22)年に校舎を新築しました。
明治24年〜25年の第二高等中学校一覧によると、敷地面積は26,107.83坪(86,306.9m2)、建物面積は2,543.63坪(8,408.7m2)でした。
当初は宮城医学校跡に開設されていた医学部も新築校舎へ移転しました。
また、医学部の3、4年生の教場82.4坪(272.4m2)が県立宮城病院内に設けられていました。
1893(明治26)年仙台市測量全図(部分)(仙台市史「特別編自然」資料付地図より(一部加筆))
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1891-92(明治24-25)年第二高等中学校全図(明治24~25年第二高等中学校一覧より(一部加筆))
赤枠が医学部の使用エリア(クリックすると大きな画像が開きます)
分離独立、仙台医学専門学校へ
その後、1901(明治34)年、第二高等学校(1894(明治27)年第二高等中学校から改称)から医学部が分離独立し、仙台医学専門学校が誕生しました。 施設は独立後も片平のこれまで医学部が使用していた施設を使用しました。 また1904(明治37)年には博物物理化学教室(登録有形文化財旧仙台医学専門学校六号教室および旧仙台医学専門学校博物・理化学教室など)が完成しました。
1905-06(明治38-39)年の配置図(明治38~39年仙台医学専門学校一覧より(一部加筆))
六号教室(魯迅の階段教室)は現在の配置と異なり、博物・理化学教室と一体の建物であった
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北四番丁への拡張・移転
1910(明治43)年、東三番丁の宮城病院の敷地・建物が宮城県所有の北四、五、六番丁(現在の星陵キャンパス)の敷地と交換され、機能も移転しました。
1911-12(明治43-44)年の北四番丁「仙台医学専門学校臨床実習室兼用講義室及宮城病院平面図
(明治43~44年仙台医学専門学校一覧より(一部加筆))
紫色部分が仙台医学専門学校の施設(クリックすると大きな画像が開きます)
1912(明治45)年、仙台医学専門学校は1907(明治40)年に創立された東北帝国大学の医学専門部となります。1913(大正2)年には北四番丁の宮城病院の土地、建物ならびに設備一式が宮城県から文部省に寄付され、東北帝国大学医学専門部の附属医院となりました。
医学部本館(北四番丁)
医学部附属医院(北四番丁)
1915(大正4)年には医学専門部が片平から北四番丁に移転。東北帝国大学医科大学が開設され、医学専門部は医科大学に引き継がれていき、1918(大正7)年に廃校となります。
その後1919(大正8)年、東北帝国大学医科大学は医学部へと改称され、現在の東北大学医学研究科へと続いていきます。
今も残る仙台医学専門学校のゆかりの地・記念碑等
仙台市内では東北大学片平キャンパスに残る旧仙台医学専門学校六号教室・旧仙台医学専門学校博物・理化学教室・記念碑や、星陵キャンパスに残る宮城病院正門など仙台医学専門学校の面影を今も見ることができます。
仙台医学専門学校の歴史
参考文献等
・第二高等中学校一覧(国立国会図書館デジタルコレクション)
・第二高等学校一覧(国立国会図書館デジタルコレクション)
・仙台医学専門学校一覧(国立国会図書館デジタルコレクション)
・東北帝国大学一覧(国立国会図書館デジタルコレクション)
関連リンク
・魯迅と東北大学(東北大学史料館)