川内キャンパスは、藩政時代の仙台城二ノ丸、
戦前の旧日本陸軍の演習用地、戦後の米軍の演習場と様々な変遷を経て現在に至っています
ここでは川内キャンパスの歴史の概略を紹介します
東北大学の川内キャンパスは、ほぼ全域が江戸時代の仙台城二の丸と周辺の武家屋敷に相当し、遺跡として登録されています。そのため大学の建物などの建設に伴い発掘調査が行われており、この発掘調査において、古代の遺物が発見されています。
縄文時代から弥生時代の土器や石器が、川内キャンパスの6ヶ所で発見されています。おおむね5000年前から2000年前にあたる時期の遺物があります。住居の跡などは見つかっていませんが、遺物は広い範囲で発見されており、川内地区が広く生活の場として利用されていたと考えられます。
また、奈良時代から平安時代にあたる、8世紀から10世紀にかけての時期の瓦や土器が、川内キャンパスの4ヶ所で見つかっています。瓦については、江戸時代に他の遺跡で拾われたものが持ち込まれた可能性もありますが、土器については、川内地区で使われていたものと考えられます。住居跡などは見つかっていませんが、川内南地区の植物園では、焼けた穴から平安時代の土器が見つかっています。
中世には、青葉山一帯に寺社や仏堂があったことが、江戸時代の地誌類に記されており、植物園内には鎌倉時代の板碑が残されています。しかし、川内地区のこれまでの発掘調査では、中世の遺構や遺物は発見されていません。川内地区には、中世の施設は存在したとしても限定された範囲にあったものと推定されます。
二の丸第6地点で発見された平安時代の焼けた穴
調査区の端で見つかったため一部の調査にとどまるが平安時代の土師器の甕が出土した
植物園内にある鎌倉時代の板碑
2基あり、いずれも供養碑と考えられる。弘安10年(1287年)と正安4年(1302年)の年号が刻まれている
江戸時代の川内キャンパス 仙台城二の丸と武家屋敷
江戸時代には、川内南キャンパスには仙台城二の丸が、北キャンパスには武家屋敷がありました。
仙台城は、仙台藩の初代藩主伊達政宗によって、慶長5年(1600年)から本丸などが造営されます。政宗の時代には、川内南キャンパスには、重臣の屋敷などが置かれていました。二代藩主の伊達忠宗は、寛永15年(1638年)に、川内地区に二の丸を造営します。これ以降、幾たびかの改変を受けながら、二の丸は仙台城の実質的な中枢として江戸時代の終わりまで維持されます。
江戸時代の仙台城二の丸や周辺武家屋敷に関わる、建物跡や溝・堀・井戸などの施設が多数発見されるとともに、陶磁器や瓦をはじめ様々な種類の遺物が出土しています。
二の丸の建物の礎石跡
文系食堂東側の、二の丸第2地点で発見。絵図との対比から、二の丸の中心建物に近い部分と判明した
二の丸北側の堀
保健管理センター建設に先立つ、二の丸第12地点の調査で発見。二の丸北側の堀の北岸と堀の底を横断する石敷きの堰が発見された
千貫沢土橋石垣
南キャンパスに北側から入る道路が沢を渡るところにある。二の丸造営時に土橋で沢がさえぎられ堀が造られた。一部改修がなされているが、江戸時代の様子を残す数少ない場所
扇坂
かつて藩士が仙台城二の丸(現在の東北大学川内南キャンパス)に登城するための坂。坂下が扇状に広がる形状から、扇坂と呼ばれたといわれている。
地下鉄東西線の開業に合わせて、国際センター駅から川内南キャンパス、萩ホールへの動線として階段を整備
近代の川内キャンパス
明治中期の川内付近図
(最近實測仙臺市街全圖 明治33(1900)年 佐勘書店発行 「雑華文庫」より)
図中番号は下記写真番号に対応
明治維新後、仙台城やその周囲地域は官有地となり、「仙台鎮台」を経て、明治21年(1888)年には「第二師団」が設置されました。川内は「軍都」仙台の中核となり、軍事関連施設が次々と川内に設置されていきます。大橋から大手門をくぐった正面の旧二ノ丸跡地(現川内南キャンパス)には第二師団司令部が置かれ、その北(現川内北キャンパス付近)には歩兵隊や輜重兵隊、野砲兵隊などが設置されました。大橋・澱橋の両橋も、こうした軍事施設の整備にともない鉄橋に架け替えられます。川内は依然として市民の日常的な出入りが禁じられた特殊な場所でしたが、一方でこうした巨大な軍事施設は、仙台市民の経済や生活にも大きな影響を与えていました。
しかし昭和20(1945)年、大規模な空襲により川内は壊滅的な被害を受け、仙台城以来の遺構である大手門をはじめ、多くの施設が焼失しました。その跡地は戦後占領軍によってそのまま接収され、米駐留軍の居住施設「キャンプ・センダイ」として昭和32(1957)年まで使われていきます。
1. 第二師団司令部
1882(明治15年)の火災で旧仙台城の建物を利用していた仙台鎮台本営が焼失したことにともない、翌々年新築されたもの(仙台市歴史民俗資料館提供)
2. 大手門前で(昭和初期)
度重なる火災等で仙台城の遺構が失われるなか、大手門は1945(昭和20)年まで残され国宝に指定されていた。大正期には旧本丸に至る散策路の整備に伴い大手門も市民に開放されていた。現在は隅櫓のみ再建
3. 大橋にて(東側から)(大正末期)
旧木橋が洪水で流失したことにより明治25(1892)に竣工。再建にあたって、第二師団の強い要望があったといわれている
4. 輜重兵第二大隊(現川内北キャンパス内)
5. 野砲兵第二連隊(現川内住宅付近)
6. 騎兵隊(現在の仙台二高付近)
川内キャンパスの誕生
川内キャンパス空撮 昭和33(1958)年 北から南にむかって
教養部移転直後の川内地区。写真中央の三角屋根が大講義室
昭和32(1957)年11月、戦後米軍のキャンプ地として使用されてきた川内・青葉山地区が日本に返還されることとなり、「川内」の歴史は新しい段階を迎えます。
仙台市中心部に近いこの広大な敷地の利用をめぐっては各方面から様々な検討・協議がおこなわれましたが、最終的に東北大学と宮城県・仙台市の三者でこの場所を仙台の新しい文教ゾーンとして整備していくこととなりました。東北大学では当時、市内各所に分散する各教養部の統合と、創立以来のメインキャンパスである片平地区の狭隘化が深刻な課題となっており、川内・青葉山地区はこれらを一挙に解決するため必要だったのです。
手はじめとして、昭和33(1958)年に、市内富沢と北七番丁に所在した二つの分校(教養課程)が川内地区に移転し、同時に青葉山植物園が誕生しました。1960年代後半からは片平地区の各学部の移転もはじまり、川内南地区への文科系学部の移転は昭和47〜48(1972~73)年に実施。同時に新しい附属図書館が建設されるなど、現在の川内キャンパスのかたちが造られていきました。
川内分校の大講義室(昭和37(1962)年頃)
旧米軍時代のチャペルを引きついだもの
教養部封鎖解除 機動隊による放水(昭和44(1969)年11月23日)
教養部構内厚生会館付近(昭和57(1982)年1月)
国立大学共通一次試験当日の様子
川内キャンパスの埋蔵文化財
川内南キャンパスは、仙台城二の丸が置かれた場所であり、北地区は家臣の屋敷が存在した区域に相当します。それぞれ仙台城跡二の丸と仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区として、継続的な発掘調査が進められてきました。これまでに、仙台城跡二の丸地区では第17次、仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区では第13次の発掘調査がなされています。
また、この仙台城二の丸・北方武家屋敷地区以外の遺跡としては、川内B遺跡と川内古碑群があります。川内B遺跡は、仙台市高速鉄道東西線の建設に伴い、仙台市教育委員会により発掘調査が行われています。その結果、17~19世紀の井戸や柱列跡等が検出され、陶磁器等の大量の遺物が出土しています。
くわしくは埋蔵文化財調査室のページをご覧ください。
川内キャンパスの名所・記念碑・歴史的建造物
紫色:名所・旧跡 オレンジ色:近代建築・歴史的建造物 黄緑色:記念碑